はまぐみ歯科診療所の思い出

これも大学の医局にいた頃の話です。
矯正学教室に歯学部を卒業して入局したものの、大学を卒業したての矯正歯科医では、まだ矯正
治療はほんの一部の事しか行えません。卒業して数年間は、生活のために、一般歯科の出張に
行き、一般歯科の治療を行い、生活の糧を得させていただくことになります。その出張先の中に、
はまぐみ歯科診療所という、知的障害者の方々を中心に治療を行う診療所がありました。
それほど診療時間内にたくさんの人々を診ることはないのですが、その数少ない患者さんの中で、
結構治療するのがたいへんな人がいます。歯科治療は一般の人でも治療をするのはいやなこと
ですから、ましてや無理やり連れて来られた知的障害のある人で、恐怖心が強い人は大変です。
格闘のように歯科診療をすることになります。

そんな患者さんたちの中に、すこし体が大きめな女の子がいました。仮にMちゃんとしておきます。
Mちゃんは、口を開けてくれないことで有名な患者さんだったらしく、衛生士さんたちは「今日はMちゃん口をあけてくれるかなあ、、」とひどく不安そうに診療台に寝かせます。そうすると、その途端から大騒ぎが始まりました。叫ぶ、顔を振る、食いしばる、とても歯の治療ができそうには見えませんでした。でも、私はMちゃんを見ていても、そのとき、「わあ、治療が大変そうだなあ」とは思いませんでした。なんだか無性に悲しかったのです。(ああ、おんなじ人間に生まれたのに、なんで境遇がちがうのだろう、気の毒でかわいそうに)と思いました。障害者の方に憐れんだ感情を向けるのは、もしかしたら、その人の人格をさげすんだりすることになることにつながりかねないかと思いますが、少なくともその時の私は素直にそう思いました。涙もちょっと出たかもしれません。とりあえずそんなかなしい気持のままで、診療いすに座って、Mちゃんの顔を覗き込みました。あいかわらずブンブン顔を振って、顔をしかめて歯を食いしばっており、とても口をあけてくれそうな雰囲気がありません。とりあえず顔を動かないようにしてもらわなければいけません。私は手首から肘にかけての腕の部分で、Mちゃんの腕をはさみ、少しだけ力をかけて、顔が動かないように固定しました。

最初はMちゃんは抵抗します。体は診療代の上に固定されてしまっているので、顔を振って、うでを
はらいのけようとします。私は気の毒だな、可哀そうだなと思いながら、腕の力加減をできるだけ調整
しながらMちゃんが顔を動かす方向に付き合って、腕を動かしながら、やわらかく顔を押え続けました。
しかし、そんな事をしばらくしていると、あまりMちゃんは、顔をぶんぶん動かさなくなったのです。私はもしかしたら気持ちがつうじたかな?と思って、Mちゃんの口の中に手を入れ、開口器をつけ、なんとその日に治療ができたのでした。これには結構居合わせた衛生士さんもびっくりしていましたし、何より私がびっくりしました。(ああ、なんだ、わかってくれるんじゃあないの)治療中も開口器で口を開けられ続けていたMちゃんでしたが、なんと治療の最後のほうには笑顔まで出たのでした。自分も歯科治療が
できて、衛生士さんたちに褒めてもらえたのがうれしかったのだと思います。
診療所から帰って、当時、とても親しくしていただいていた、矯正科の5年先輩の金井鐘秀先生にその
話をすると、金井先生も以前にはまぐみ歯科診療所に出張所に行っていて同じような経験をしたことが
あるとの事でした。

「Sくん(仮)ていう子がいてね。その子は少し目が不自由な子だったんだけれど、何故か僕になついてくれてね。僕が行くと僕の顔をなでるんだよ。そして、隅々までなでてくれて、僕だということだとわかると、安心してくれて、それから診療させてくれるんだ。Sくんも僕にしか診療させてくれなかったみたいだよ。
きっと、障害者の子供って、目の前の人がどんな気持ちでいるかがわかる能力が高いんじゃあない
だろうか?良かったね、診療させてもらえて」
私も良い先輩と縁があったものです。

 その後、私は、しばらくはまぐみ歯科診療所に出張に行って、Mちゃんの専属の歯医者のような感じになってしまいました(なぜか他の先生には口を開いてくれなかったようです)。
 今改めてその時の事を考えると、きっと自分がMちゃんの治療をさせてもらえたのは、自分が子どもの頃に体が弱かった経験があったからだろうと考えます。そのせいだったか、私は小学生時代に虫でも動物でも人でも、弱いものにひどく共感をもって、蚊でさえも殺すのをためらう時期がありました。(今はもちろんそんなことはないのですが)そんな経験があったから、きっとMちゃんが歯の治療をさせてもいいと思うくらいに、心を開いてくれたのだろうと考えます。

私は子供のころ、弱虫でした。そしていま、それは貴重な経験でもあったと思います。今は普通の子ども達をたくさん診療する立場になってはいますが、一見健康そうに見えても、かなり生活や環境が厳しい子どもたちもいるように感じています。自分が弱かったこと、不健康だったことが、そういった子供たちの少しでも役に立てば良いなと考えています。