Oさんの思い出

新潟大学の矯正学教室で矯正の研修を行っていたころの話です。
歯科矯正が関わる口の病気の中でも、唇顎口蓋裂は、最も大変で、時間がかかる治療のひとつです。
人の口は、お母さんのおなかの中にいる時に、いろいろな部分が繋がって、本来の口の形になるのですが、環境その他、いろいろな原因で、口や顎の一部が繋がらない状態で生まれてくる赤ちゃんがいます。そうなると、上顎が割れていたり、唇が割れていたりして生まれてくることになるのですが、唇や上顎が割れていると、おっぱいがうまく飲めなかったり、成長すれば言葉がうまくしゃべれなかったりと、いろいろな不都合が出てきます。
ですから生まれて間もないころから、口の中にいろいろな装置を入れたり、時期を見て手術をしたり、矯正治療をしたりと、かなり大変な思いを患者さんたちはします。物心がつく頃には、口の形が人と少し、もしくは、かなり違うことから、心のない人たちが近くにいれば、心ない中傷を受けることも時にはあります。
Oさんも、そういった唇顎口蓋裂の患者さんの一人でした。

私がOさんと関わったのは、Oさんが高校生だった頃で、すでに仕上げの矯正治療(マルチブラケットという装置で行う矯正治療)を、行っている最中でした。当時、Oさんの矯正治療を行っていた先生が、大学を退職することになり、私が引き継いだのでした。
Oさんはすでに小さい頃からたくさんの手術と矯正治療を受け続けていて、引き継いだカルテの厚さは私が担当した患者さんの中では一番でした。そして引き継いだ時の口の中の状況は、正直言って、まだまだかなりやることがある状態でした。「う〜ん。このかみ合わせが自分に治せるだろうか?」当時まだ若輩だった自分は、引き継いだ後にどうしたらOさんのかみ合わせが治るかどうか分からず、途方にくれました。
幸い、新潟大学の矯正学教室には、当時頼れる上の先生がたくさんいたため(今もそうでしょうが)いろいろな先生に意見を伺い、当時教授をされていた花田先生にも矯正再診断をしていただき、治療方針を改めて決定して、引き継いでから1年と少し後に、仕上げの治療を完了することができました。「やれやれなんとか終了できた」と、当時の私は安堵し、矯正の装置が無事外せたことを、Oさんと一緒に喜んだものでした。
その後、保定観察(動かした歯をしばらくとめておく装置を入れておき、それをチェックします)に入り、ましたが、Oさんはその後看護師を目指して看護学校に入学しました。小さい頃から、痛い治療を受け続けてきたOさんが看護学校に入った気持は、どんなだったか。直接聞いたことはありませんでしたが、きっと、医療機関の人々に感謝し、患者さんの気持ちがわかる自分の経験を生かしたいと考えたのだろうと想像しました。

やがて、最後の観察の日、Oさんは大学にやってきました。ところが口の中を見ると、なんと、歯が1本虫歯でボロボロになっていました。以前に虫歯の治療に行くように話してあった歯でした。「歯医者さんで治してもらいなさいって言ったじゃない!」私ははじめてOさんに声をあげて怒りました。かみ合わせがきれいになっても、虫歯で歯をだめにしては何もなりません。ましてや看護師さんになろうとする人が、そんなことではいけないだろうと考えて声をあげてしまいました。Oさんは悲しそうに「忙しかったんです」と言って、今にも泣きそうになってしまいました。私は我に返って「そう、忙しかったの、それじゃあしかたないね」とやさしく言ってあげると、Oさんは少しうれしそうな顔をしました。最後にちゃんと虫歯の治療に行くように言って、その日の診療、そしてOさんにとって、最後の矯正治療の日は終了となりました。

「じゃあ、元気でね」というと、Oさんは1枚の写真を私にくれました。

「これは?」
「先生にもっていて欲しいんです」

見ると、それはOさんが3人の看護学校の同級生と、並んで楽しそうに笑っている写真でした。写真とOさんを見比べると、Oさんは、さも嬉しそうに笑ってくれました。私も嬉しくなって、婦長さん(今は師長さんですが)を呼んで、
「婦長さん!Oさん、看護婦さんになるんだよ」
「まあ、そうなの!?」婦長さんも苦労をして矯正治療が終了になったOさんが看護師を目指していることが嬉しかったようで、しっかりねと何度も励ましてあげていました。

Oさんがいなくなった後で、私は何度もOさんがくれた写真を見直しました。写真に写っている女の子たちの中で、Oさんは一番きれいに写っていました。
「私はこんなにきれいになりました!」ということなのか
「ありがとうございました」という意味なのか
開業する少し前の話で、いろいろと将来に悩んでいた昔の話。
「ああ、がんばってもっと良い矯正の先生にならなくちゃあいけない」と心を爽やかな気持ちで新たにした日でした。

今もその写真は、私の宝物としてしまってあります。



吉野の部屋に戻る